フェルメール展


皆様ご機嫌麗しゅう、営業4年目の兼子です。
今、私は去年の12月に行ったフェルメール展に思いをはせながらこの文書を書いている。

会社の研修で行ったとはいえ、実に至高の時間であったことは言うまでもなく、
今後私の人生に強く影響を及ぼす体験であった。

今回一人称を「私」としているのは、恐らくフェルメールの影響に他ならないだろう。
多分フェルメールも自分のことを「私」と称していたと容易にイマジン出来る。

その日私が彼から受け取ったものはあまりにも大きく、どんな言葉を選んでもこの感動を表現できないのではないか、そんな思いがここ一か月私の頭を支配していた。
故に筆を執るのが遅くなってしまったということをここで詫びさせて頂きたい。
決して忘れていたわけではない。

その日は12月の冷たい雨が、より一層都会に漂う虚しさの輪郭をはっきりとさせていた。
フェルメールを嗜むにはうってつけな日だった。

この心にぽっかり空いた穴を、彼の作品がどのように埋めてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、これから始まる出逢いに私は心を躍らせていた。

待ち合わせ場所につき、共にこの褒美ともとれる研修を受ける栁澤主任と合流した。
きっと主任も私と同じ気持であったのだろう。
抑えきれない興奮がその目から顔をのぞかせていた。

短い挨拶をかわし、私たちは流行る気持ちに手を引かれながら美術館へと向かった。

美術館に入るとイヤフォンが渡された。
どうやら、作品ごとにその絵が描かれた時代背景や、作者の心情を音声で解説してくれるらしい。

これはいささかナンセンスだ。
美術鑑賞とはあくまで私とその作品が出会い、触れ合ったときにどのように心が動くのか。
その過程を楽しむ行為である。そこに時代背景や、誰かの解説など不要なのだ。
私は今日フェルメールと一対一の会話をしに来ている。
新しい友と出会うように。古き友と語らうように、私は彼と話がしたい。
主任も同じことを思っていたのだろう。少々不満げな表情を浮かべていた。

仕方がないので、イヤフォンを付けて再生ボタンを押す。
何処か聞き覚えのある声が聞こえた。

「石原さとみ」である。

私の右耳に、左耳に。細胞一つ一つに彼女の声が響き渡った。

「これはいけない。」
私はその声の主が石原さとみのそれであることを認識したとき。
言いようもない焦りに駆られたのを覚えている。

私は今日フェルメールと一対一の会話を楽しみに来たのである。
誰にも邪魔はされたくない。

しかしそこに現れたのが「石原さとみ」であるなら話は別である。

正直言うと私はフェルメールに少し席を外して欲しいとさえ思っていた。

私はどっちかというと石原さとみと一対一の会話がしたい。

主任も同じことを思っていたのだろう。
そういう顔をしていた。

そこから先のことはイマイチ覚えていない。

フェルメール展だったのか、石原さとみ展だったのか。

しかし私は素晴らしい何かに出逢い、何かを受け取って帰ってきた。

何展だったかなんてはさしたる問題ではない。

自分にとってその日がプラスだったのか。
答えは勿論YESである。